「新八百屋丁」

新八百屋丁(しんやおやちょう・SHIN-YAOYA-CHO)


江戸期~現在の町名。江戸期は和歌山城下新町のうちの町人町で、明治12年和歌山区、同22年からは和歌山市の町名となる。和歌山城の北東部、元和5年徳川氏入国後開かれた町人地新町の東縁部に位置する。当町は新町最北端の鈴丸丁に続き、東は畑屋敷雁木丁、西は新堺丁、南は新大工町に接する。町名は広瀬八百屋町に対して、新町の八百屋集住町であったことに由来すると思われる。

新地として新町年貢を納入し、町入用は間打で惣代給・御祭札入用・橋御普請入用を、棟役で橋普請入用・火事場人足・水出人足を負担した(神保家文書)。昭和20年7月の空襲により全町焼失したが、第2次大戦後、商業地として復興した。明治6年には戸数29、男55・女63。大正2年29戸・220人。


引用文献:「角川日本地名大辞典」編集委員会(1985).30 和歌山県 角川書店
平成30年2月14日更新 建築三団体まちづくり協議会

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