「久右衛門丁」

久右衛門丁(きゅうえもんちょう・KYU-E-MON-CHO)


江戸期~現在の町名。江戸期は和歌山城下湊のうちの武家地で、明治12年和歌山区、同22年からは和歌山市の町名となる。和歌山城の西部、家老久野丹波守屋敷(現和歌山県庁敷地)に西接する徒町の西部に接し、北西から南東方向に走る道路沿いに位置する。南部は広道、西部は東長町5丁目に接する。「元禄城下町図」には、東側に「久右衛門丁奉行組」、西側に「久右衛門丁足軽」と記し、勘定奉行同心の居住地であったことを示している。東側北部には勘定奉行長屋も見える(安政城下町図)。町名は勘定奉行宮地久右衛門(400石)の名にちなむ。明治2年諸同心地に町名が付けられる時に「旧名之通」とされた(町大年寄御用留/和歌山市史5)。明治6年には戸数100、男157・女181。大正2年70戸・276人。昭和20年7月空襲により全町焼失。第2次大戦後、復興土地区画整理事業の実施により、県道和歌山港鳴神線が東西に通る。同28年県道沿いに県労働金庫が建てられた。


引用文献:「角川日本地名大辞典」編集委員会(1985).30 和歌山県 角川書店
平成30年2月14日更新 建築三団体まちづくり協議会

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