「有田屋町」

有田屋町(ありだやまち・ARI-DA-YA-MACHI)


江戸期~現在の町名。江戸期は和歌山城下湊のうちの町人町で、明治12年和歌山区、同22年からは和歌山市の町名となる。和歌山城の西武に位置し、北部は東坂ノ上丁、東部は雑賀屋町、南部は上野町2丁目、西部は有田屋町西ノ丁に接する。貞享4年町奉行支配下に編入された新地。「続風土記」は町名由来について「有田屋新九郎といふ者居住せし故に名つく」と記す。有田屋(上野山)新九郎は、江戸初期の豪商で、貞享4年有田屋浜塩田(現海南市)を開発した。隣接する雑賀屋町に雑賀屋長兵衛が拝領地を得たように、当町は彼の新田開発の功に対する拝領地であった。「寛政城下町図」に「有田ヤ新九郎長屋」が見える。北西隅、徳川頼宣隠居所跡に真言宗光明院がある。同院は寛文11年元寺町から移転。この頼宣終焉の地に小堂、その前に連理の松と称する古松があった。この古松は「名所図会」に「国祖君の御殿御庭前の松にて、いくとせをふるともしるべからず。高さ七丈、株まはり四間、枝東西二十五間、南北十五間ばかり」と見える。明治6年には戸数50、男84・女94。同8年光明院内に有街小学創立、同16年雄湊小学第二分校となり、同19年廃校。同年湊南小学校が開校、翌20年東長町3丁目へ新築移転した。同39年沖野岩三郎による私立和歌山図書館が開館し、間もなく閉鎖されたが、同41年開館の県立図書館を先駆するものであった。明治40年私立女子技芸学校創設、同42年芝ノ丁へ移転した。大正2年戸数29・人口124。昭和20年7月空襲により全町焼失。第2次大戦後、復興土地区画整理事業が実施され、北半分は同22年新築の雄湊小学校敷地に、南半分は雄湊公園敷地となった。


引用文献:「角川日本地名大辞典」編集委員会(1985).30 和歌山県 角川書店
平成30年2月14日更新 建築三団体まちづくり協議会

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