「鈴丸丁」

和歌山市の町名の由来~origin of town name of Wakayama~

鈴丸丁(すずまるちょう・SUZUMARU-CHO)


江戸期~現在の町名。江戸期は和歌山城下新町のうちの町人町で、明治12年和歌山区、同22年からは和歌山市の町名となる。和歌山城の北東部、新町の最北端に位置し、西の鈴丸橋、北の伊勢橋で和歌川を渡って北新町に通じる。鈴丸橋は、家老安藤家中屋敷前にあったことから中屋敷橋とも呼ばれ、伊勢橋は「元禄城下町図」に「鈴丸橋」と記される。紀藩街官司秘鑑(国立公文書館所蔵/県史近世1)にも鈴丸橋を「帯刀殿中屋敷橋」といい、伊勢橋を「鈴丸橋」というとあって、橋名の変更があったことを示している。

「名所図会」によれば伊勢橋から東方を眺めると「勢州高見峠あざやかにして、眺望よし。されば毎年七月二十三日の夜には、郷党の人こゝにつどひて、つきをまち、三尊の影を拝すといふ」とある。鈴丸橋は長さ16間・幅2間、東詰に番所があり、また、東詰角に竹問屋のあったことから竹屋橋とも呼ばれた。伊勢橋は御伊勢橋とも坊主橋とも呼ばれ、長さ19間3尺・幅2間3尺、両橋とも町方支配の橋であった(町中橋々間数之事/田中家文書)。町内には伊勢橋南詰に真言宗東曜山万精院、浄土宗鎮西派浄刹山法蓮寺、鈴丸橋東詰に禅宗臨済派瑞雲山竜源寺があり、広大な寺地を占めていた。万精院の由来には2説あり、「続風土記」は高野山万精院の朝秀法印が寛永年間に新通4~5丁目付近(もと松之木間町)へ堂舎を建立、慶長19年豊臣秀頼が熊野本宮寺へ寄進した鐘を、寛延2年同寺へ移したと記すが、当丁への移転時期を明らかにしていない。「名所図会」は、山東口須佐村に所在した当院は兵火にかかり、寛永3年法印朝秀が、この地に移して中興したとする。境内に紀三井寺・粉河・淡島への道標(辻碑)があり、昭和20年の空襲により破壊されたがのち再建された。梵鐘も戦災で損傷した。法蓮寺は慶長13年小倉光恩寺開山信誉上人が住吉町に開基、のち当町へ移転したと伝え、竜源寺は天正年中に実山和尚が東宇治へ建立し、元和5年に現在地へ移転したという(続風土記)。寺地を除いた町人地は、新町として新町年貢を納入し、町入用は間打で惣代給・御祭札入用・橋御普請入用を、棟役で橋普請入用・火事場人足・水出一足を負担した(神保家文書)。大正期の米騒動後、大正8年竜源寺境内へ市立託児所を開設したが、まもなく中野島村へ移った。昭和20年4月、空襲に備え、伊勢橋~鈴丸橋間の川沿い400坪が疎開空地帯に指定され、建築物除却作業が実施されたが、同年7月の空襲によって3寺院を含め全焼した。第2次大戦後、寺院も復興し、川沿いに飲食店街、そのほかは商業地となった。明治6年には戸数39、男73・女73。大正2年35戸・271人。


引用文献:「角川日本地名大辞典」編集委員会(1985).30 和歌山県 角川書店
平成30年2月14日更新 建築三団体まちづくり協議会

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